初代松本繁次郎がアメリカから帰国し、大正九年(1920年)2月4日に東京深川の清澄庭園のそばに平安堂松本商店を興し、モップの製造販売を開始したのです。
大英博覧会の職員として渡英した松本繁次郎が、いつアメリカに渡ったのかは、定かではありませんが、オークランドのS・伴商店の社員だったこと、アメリカで運転免許を取得して帰国し、交通整理の仕方を深川警察署の警察官に指導したことは、直接聞いております。
私が先代の松本哲男と婚約した頃、入院していた祖父のお見舞いに行った時の第一印象は温厚ながら眼光は鋭かったと記憶しています。
退院お祝いに、手作りのケーキを持っていきましたら、祖父はすごく喜んで、嬉しそうに「貴女が作ったの。」と何回も聞きました。
祖父の体調を考えて、結婚式を早めた真夏の披露宴でしたが、疲れも見せず私たちの側にたち、招待客に一人一人にていねいに頭を下げ挨拶していた笑顔が忘れられません。
私たちの新居に毎日のように遊びに来ては、「ここはいいね~」とくつろいでいました。1Dkのアパートなのに何がいいのかしらと可笑しかったですが、煙草が自由に吸えたからかもしれません。
二人でよく喫茶店にいきました。祖父はコーヒーが大好きでしたが、私にはパフェやあんみつを勧めてくれました。スーパーで祖父の好きなトマトジュースを買って、バスで帰宅するとき、空いている席に私を座らせようとするのには困りました。
いつも身だしなみをきちんとし、ステッキを持って歩く姿は、惚れ惚れするぐらいお洒落でした。優しくてウイットに富みセンスも良いので、外出時の服装チェックは祖父にしてもらっていました。
そんな折り、やはり八十を超えていた私の祖母が上京し松本家を訪れ、「松本のお祖父さんは、人とは違った貴重な経験をした素晴らしいい方だ。お祖父さんのお話を良く聞いて、貴女が書き留めておきなさい。」と言いました。
あの時、祖母のアドバイスに従っていたら、もう少し会社や松本家のことが後世に伝えられたのに・・・
まさか私が会社を継ぐことになろうなんて、想像もできないことでしたから・・・。
祖父は、一切の偏見がなく心の広い人でした。私のことも嫁という目ではなく、人として見てくれました。祖父からいやな思いをするような言葉は一度も掛けられたことはありませんでした。
そんな楽しい日も長くは続かず、だんだん体調が悪くなり、とうとう不治の病を宣告されたのです。「何をしてあげたら良いでしょうか。」との問いに「何もできることはない。」との主治医の言葉が虚しかったです。
暖かい陽が降り注ぐ12月の朝、生後4カ月の私の娘の手を20分間も握りしめたその後で静かに旅立ちました。
「取り返しがつかない」とはこういうことなのだと思い、泣いて泣いて泣きました。
祖父が大好きでした。祖父と過ごした1年4カ月は私の宝物になりました。
後8年で創立100周年を迎えます。
創業の想いを受け継ぎ、次の世代に受け渡していきたいと願っています。
ゆりこ