日本初のモップメーカー日之出株式会社の松本ゆり子です。
もうすぐ「父の日」ですね、皆様プレゼントはご用意されましたか?
照れ屋のお父さんもきっと嬉しいと思うので、心がけてあげてくださいね。
父が亡くなって早5年半が過ぎましたが、笑顔の父しか思い浮かびません。
父の「鶴の一声」で、あっちといえば家中があっちを向き、こっちといえばこっちを向くというような家庭でしたが、父は全然怖くはありませんでした。とても朗らかな人だったからです。
ほらふき男爵の冒険と父の思い出
子どものころから面白いお話をしてくれたのですが、ほとんど「ほらふき男爵の冒険」みたいなお話ばかりでした。出かけるのも好きで、バスや電車であちこち連れて行ってくれたのですが、いつも行き先は決まっていなくて、ワクワクドキドキしたことを思い出します。
車もすごく好きで、小学生の頃には、日曜日は毎週ドライブに出かけていました。毎週早朝出て夜遅く帰宅するので、月曜日は必ず宿題忘れで先生に叱られ、バケツを持って廊下に立たされたこともありました。
仕事の話も良くしてくれましたが、なぜかいつも大成功の話ばかりでした。
当時の父の会社ー大田区の六郷橋近くのプラスチック成型の町工場ーにも時々遊びに行きましたが、「ダイヤモンドの粉で磨いているんだよ。」と楽しそうに説明する父を見て育ったので、私も仕事が大好きになったのかもしれません。
「一番大切なのもは自由だ、そのために少しばかりの金と努力がいる。」というのが口癖だった父でしたので、「勉強しろ」と言われたことは一度もありませんでした。
それどころか、受験勉強中の私のところに、「面白い映画をやっているよ、一緒に見よう。」と誘いに来るありさまです。つられて映画を見てしまう私でしたが、楽しい思い出になって良かったと思っています。そんな風に「まぁ、いいか」と思ってしまう呑気なアバウトな性格は、経営者に向いていたと今更ながら、父のおかげと感謝しています。
その時は全く気がつかなかったのですが、私の家は普通の家庭とは大きく違っていたようでした。「~しなければ」とか「~してはいけない」という躾けはされなかったので、お嫁に行ってから苦労しました。(笑)
若き日の父は大学卒業を3カ月繰り上げて戦争に行き、ビルマのインパール作戦最前線で命からがら敗走する苦労を経験したのですが、その体験談でさえ、「ほらふき男爵の冒険」のような感じでした。
自分の部下の命だけは守ると決心して、必死に全員連れて帰った父は、それ以上悲惨なことは言いたくなかったのだと思います。
考え方てみると、発想がユニークでいつも楽しんでいて、人を大事にして皆に好かれる父の性格は、とてもエクスマ的だと思います。
きっと今頃は、戦死した大学の友人達や早世した大親友と、天国で楽しく暮らしていると信じています。
ゆりこ