日本初のモップメーカー日之出株式会社の松本ゆり子です。
今日お誕生日を迎え、67歳になりました。
大勢の皆様からあたたかいお祝いのメッセージをいただき、感激しています。
1949年7月12日、三重県度会郡小俣町、今の伊勢市の田舎町に生まれました。
ちょうど庭に百合の花がいっぱい咲いていたので、父が付けてくれた名前です。
父の仕事の関係で、四日市→伊勢→京都→伊勢→東京と移り住み、物心をついたのは京都でした。最初に覚えたのが京都弁で次が伊勢弁でしたので、方言に苦労し、ちょっと内気で口下手な少女時代でした。
進学や就職までは、ごくごく平凡に順調に過ごしたのですが、
結婚してからは結構波瀾がありました。
皆様もきっとそうなのだろうと思うのですが・・・
自分の家は普通だと思っていたのですが、
核家族の実家はとても自由だったのです。
テレビは歌番組か、父と一緒に時代劇や映画ばかりで、ホームドラマを見たことがなかったので、大家族の大変さなんて、未知の世界でした。
夫の父母、祖父母との三世代同居は、面食らうことばかりでした。
松本家の人々は、裏表の無いいい人ばかりなのですが、意見をはっきり言う家風でした。
父の言うことさえ聞いていれば平和な実家とは違って、
こちら立てればあちらが立たずと行ったことがしょっちゅうでした。
ある時、私のタンスの置き場をめぐって、家中で大喧嘩になり、
私は一言も意見を言っていなのに、「どうしてこうなるのだろう」と驚くばかりでした。
「船頭多くして船山に登る」とはこのことだと実感しました。
祖母からの毎日の小言にも神経がまいりました。
「年寄りは改められない、若いお前が合わせるしかない。」という主人の言葉に従って、なるべく祖母の良いところを探して好きになるよう努めました。自分のことを好いてくれる人のことはあまり嫌いにならないと思ったからでした。
祖母の認知症の介護、子どもの喘息等で、どこにも出かけられず、親友とも会えなかった10年間が、弱かった私を強くしてくれました。
あの時の経験があったからこそ、会社を経営することができたと思っています。
また、そんな日々を支えてくれたのが、そっと見守ってくれる実家の両親の愛と、若いころ読んだデール・カーネギーの「人を動かす」やアランの「幸福論」の考え方でした。
私に厳しかった祖母は、家族の名前がわからなくなっても、私の名前だけは忘れませんでした。いつも私の名前を呼んで、姿を追い求めてくれる祖母は、いつのまにか私の宝物になっていました。
その後も両親の看病や介護の他、人に言えない辛い経験もしましたが、良い友人に恵まれ、子育てや趣味やボランティアに打ち込むことができたのは仕合わせでした。
社長になってからも、いろいろな方に親切にしていただき、助けていただいたご恩は忘れられません。
何歳になっても人間は完成するものではありませんが、健康で少しでも人のお役に立てる良い人生を送りたいと願っています。
皆様、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ゆり子