私より10歳も違わない方が、父親の顔も知らずに育ったのです。
皆苦しかった戦後を母親一人での子育ては、どんなに大変だったことでしょう。
食べられないとか、最低限必要な物も無いといった経験をしたことが無い私は、
父から戦争の話は聞いていても、これまでどこかよそ事だったと気がつきました。
戦友会(慰霊祭)など行きたくないと思っていた私は、同じ日本人として
恥ずかしい、申し訳ないと反省しました。
皆様、ご苦労されたでしょうに、明るく前向きです。
若い時一所懸命働いて、戦友会に来られるようになった事を喜んでいます。
苦労されたお母さんの老後のお世話をできた事に満足されています。
各地のおみやげを数名の方から戴きました。
名物を皆に味わってもらうのを楽しみにされているのです。
宴会で隣席の安間さんは、お父さんに会ったことが無いと笑って話して下さいました。
つい「私の父は、運良く帰って来ました。」と言いますと、「それは違います。
私も運が悪いと思ったことはありません。縁があって帰って来られたのです。」
と言われました。とても素晴らしい言葉です。忘れないようにしようと思います。
「幸せは、人の心の持ち方にある。」のですね。
唯一人戦友の方が出席されていました。
97歳、かくしゃくとされています。お孫さんとご一緒の参加です。
声にも張りがあり、飛び出す言葉の半分は冗談です。
「朝目が覚めると、喜びが溢れてきて、何でも食べられる。」そうです。
「元気の秘訣」を聞いてみますと、「毎日富士山を見てるから・・。」という答えが
返ってきました。家の裏口を開けると、富士山が真正面だそうです。
宴会のカラオケで、帰還戦友の息子さんが、どうしても覚えて帰りたいと、
「独立自動車第45大隊の歌」を歌い始めると、端の席からいきなり立ち上がり、
マイクの前に進みます。少し歌ったところでテープが終わってしまったので、
もう一度となりました。驚くほど通る声で、力一杯歌われました。
一緒に歌われた忍田会長のお父さんも朗らかな方で、私の父と同じ
二中隊で忍田菊次郎さん、「キクチャン。」と慕われていたそうです。
「今では、私がキクチャン呼ばれています。」と御徒町で製本・印刷会社
「菊チャン堂」を経営されている忍田明治会長も明るい方です。
修善寺で奉納された「追悼の辞」は素晴らしく立派でした。
皆様のために献身的にお世話をして下さいます。
心から感謝の気持ちが沸いてきます。
来年は、記念すべき60回目の南想会です。
できるだけ大勢の方に参加して戴けると嬉しいです。
独立自動車第45大隊は、主に静岡、愛知、岐阜、東京のから編成されました。
実は、豊橋、浜松の方もすごく多いのです。唯一人三重県出身の父が
転属して、豊橋の方と運命を共にしたのも、ご縁があったからです。
終戦後、豊橋の戦友のお宅に泊まらせて戴いて、豊橋の紡績会社様から
「ガラ紡」を教えて戴いたのもご縁でした。
東京育ちの私が、豊橋に根をおろして会社を経営させて戴いているのですから、
豊橋とは余程のご縁があったのだと思います。
朝食時の最後の会合で、97歳の高田さんが思い出したように、
「とても優しかった衛生兵さん。」の話をされましたが、遺族の一人が何気なく
「その方の名前は。」と聞きましたら、「安間さんです。」、皆びっくりしました。
お父さんに会ったことが無くても、お父さんの優しい遺伝子が、息子さんに
受け継がれていたのですね。やっぱり「縁があった。」のだと思います。
もし、このブログをご覧くださった皆様のお知り合いに、独立自動車第45大隊に
ゆかりの方がいらっしゃったら、是非来年7月21日の南想会(戦没者慰霊祭)
へのご出席をお勧め下さいますようお願い申し上げます。